Webコンテンツづくりに必要な倫理観とは

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以前から、このブログでエッセイ的な文章を書きたいと思いつつ実行に移すことができていなかったので、今年こそはチャレンジしようと思います。今回はコンテンツづくりの倫理観について。

2017年一発目、行ってみましょ〜。今年もRriverをよろしくお願いします。

インターネットはどこへいく?

インターネットはオープンで誰もが自由に情報を発信できる素晴らしいプラットフォームだと昔から信じています。そして、その素晴らしさに魅せられてブログを書いたり、ウェブの仕事を続けています。でも、偽ニュースとかコピペメディアの問題とかネット広告業務関連の過労死問題とか、あまり嬉しくないニュースが飛び交う昨今。インターネットに乗っかる情報の質やその消費のされ方を見ていると、なんだかインターネットは恐ろしい世界を作り上げているという嫌な感じを持ち始めています。

これまでは自浄効果でどうにかなると思っていたんですけど、ここらで一度立ち止まって軌道修正をしないとインターネットがもっと嫌な場所になりそうで心配です。いまいちどインターネットの使い方、とりわけ情報の発信、流通、消費の3つの側面を見直す必要があると感じています。コンテンツを作って広める発信者、そのコンテンツをユーザに届ける検索エンジンやソーシャルメディアなどの情報の流通プラットフォーム、それから、情報を受け取るユーザの3者のそれぞれが、ちょっと立ち止まって考えてみる必要がある時期にきていると感じています。

コンテンツづくりに近道はない

まず、コンテンツづくりについて考えてみます。

ユーザの役に立つ、質の高いコンテンツをつくるのって本当に大変です。そもそも、そういったコンテンツを作るための訓練に時間がかかるし、質を上げようと思ったら制作のプロセスにもそれ相応の時間がかかります。さらに、文章にしろ映像にしろ、そもそもの制作自体が大変で時間がかかるのに、組織でそれを行う場合、同意形成や承認プロセスにも時間と労力が必要になります。もちろん、これは、まともにやろうと思ったらの話ですけど。

質 ≒ スキル × 金 × 時間

質の良いコンテンツを量産してインターネットで流通させるには、スキルに加えて大量のお金と時間が必要で、いずれかが欠けている場合、なにかを犠牲にしないとコンテンツビジネスで急成長を望むのは難しいのだと思います。だからこそ、DeNAが描いたパレット構想 は夢のような話なのかもしれません(ちょっと成長を急ぎすぎたのかな…)。

スキルが足りない場合はお金を使って他人の力を借りたり、時間を使って何度も修正を繰り返してそれを補わないと質をあげるのは困難です。お金と時間も使えない場合は、どこかで「質」を妥協するしかない。

安価ですませようとすると、質を下げるか、どこかで誰かに無理を強いることになる(ここに過労死問題も関わっていると思っています)。お金なり、時間なり、人員の補強や教育なり、それなりの投資をせずに良いコンテンツなんてできるわけないんです。その辺りでイノベーションが起こせたらすごいんでしょうけど、そんなに簡単じゃない。昨年話題になったThe Grid も、まだまだ現実味がない みたいですし、AI技術もまだそこまでは発達していないんですね。コンテンツづくりはそんなに簡単じゃないということなんでしょう。

マニュアル化の落とし穴

制作にかかる費用や時間、また、必要とされるスキルは、プロセスの効率化やマニュアル化である程度は補完できるのかもしれません。でも、極端な話、スキルがあまり高くなくても安価に短時間で検索エンジンに評価されるコンテンツ制作のマニュアル化を試みたら、DeNAのキュレーションメディアで起こった ような既存コンテンツのコピペを促し検索エンジンの弱点を突いてアクセス流入に重きを置いたコンテンツ制作に流れてしまったのだと思います。

「コンテンツの質」が、いつの間にか「SEOの質」にすり替わり、最終的にはユーザのことを蔑ろにして裏切ることになってしまった。DeNAの件は、そこに真っ黒な悪意があったというより、ビジョンとか向かう方向がずれていて、間違ったゴールを目指したら必然的に間違った手法に走ってしまった。数値を追いかけることにフォーカスし過ぎてユーザのことが見えなくなってしまった。もしくは、ゴールに到達することを急ぎすぎて、大切なものを見失ってしまった。勝手な想像でしかありませんけど、そんな感じだったんじゃないかなぁ、と。

情報の流通がもたらす闇

さらにコンテンツづくりを難しくしているのは、昨今の情報の流通のあり方です。Google(検索エンジン)とFacebook(ソーシャルメディア)が力を持ちすぎてしまったために、どこかでバランスが崩れてしまったと感じています。良質なコンテンツができても、SEOで負けてしまってはコンテンツをユーザのもとに届けることすらできない。また、ソーシャルメディアで拡散されないと見向きもされない。反対に、偽ニュースでもコピペコンテンツでも、検索エンジンやソーシャルメディアで評価され、多くの人に拡散される可能性があるわけです。

だからこそ、SEOに強いとされる長文コンテンツを、これまた検索エンジンに評価されやすい更新頻度で大量につくって相互にリンクするようなことをしてしまった。それを安価に短時間で量産することを考えたら、倫理観を度外視したプロセスが生まれてしまった。さらには、ソーシャルメディアで拡散されるように、よりセンセーショナルな話題性のあるコンテンツを好んで制作するようになってしまう。倫理観を崩さないと生き残れないような錯覚に陥るんですよね。

ある意味、検索エンジンとユーザがソーシャルメディアで求めるコンテンツをマニュアル化して作ったらこうなってしまった。本来考えるべき「コンテンツの質」が軽視され、アクセスを集めて広告収入を得ることだけを考えたら、低コストでSEOとソーシャルメディアに強いコンテンツを量産する方向にいくのは必然だったのかもしれません。長期的なビジョンがしっかり見えていれば、そんなことにはならないと思うんですけど。実際にコンテンツをつくる人たちが、アクセスと「いいね」を集めることだけが仕事だと勘違いしてしまったら、今回のキュレーションメディア騒動のようにならざるを得なかったのではないか。そう思います。

どうやって倫理観や「質」を守れるのか

では、どうすれば倫理観やコンテンツの質を守ることができるのか?

Web担当者Forumの編集長の安田さんが、この記事 のインタビューでおっしゃってるように、「真っ当なこと」をすること、すなわち、自分自身や親子どもに対しても恥ずかしくない仕事をすることを徹底するしかないのかもしれません。社会に貢献したいという真っ当なビジョンを掲げ、それに基づいた倫理観や質を編集長や組織の一人一人が死守することが、質の高いコンテンツを生み続ける唯一の方法なのかもしれません。アクセス集めや金儲けをすることだけが目的のメディアが長続きするわけがないと思いますし、そうであると信じたいわけです。

そして、この「倫理観を死守すること」が何を意味するのかというと、組織でコンテンツを発信して行く場合、言葉にしにくい「倫理観」を明確にして共有する努力が必要不可欠だということです。例えばDeNAのキュレーションメディアも、組織全体でこういった「倫理観」みたいなものが共有できていれば、そして、ガチンコに議論されてコンテンツ担当の一人一人が腹落ちするまで納得していたなら、こんな大きな問題にはならなかったのかもしれません。外注マニュアルでも、そうやって作り込まれた編集方針の理解の徹底が第一になされていたら、もしかしたら、今回のような問題は防げたのかもしれません。

スマホとソーシャルメディアの普及によってネットとリアルの世界が限りなく近づいている(または、そのように見え始めている)昨今、ある意味、昔より世界が身近になっています。そんないま、グローバルな「倫理観」や「価値観」がもっと議論され 共有される必要があるのだと思います。そういう意味では、教育が担う役割は大きいのでしょうけど、相互理解を促す取り組みや情報(本来はメディアがそうあるべき)がインターネットにもっと多く存在したら、平和な社会に貢献できるのかもしれません。

そして、これは夢のような話かもしれませんが、情報の流通面でも、GoogleやFacebookなどの流通プラットフォームが倫理観や本当の「質」を考慮するものに進化すれば。。。そんな日が近い未来に訪れることを願っています。

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